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歴史は変わる!歴史教科書の変容を調査!! [調査、評価]







歴史は変わる!

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図参照 :(c)AFP/Harvard Divinity School/Karen L. King 1 2 ...
独身のはずのキリストに実は妻がいた?


キリスト教の教えでは長い間、キリストは未婚であったとされてきました。

だが2012年に「妻」に関する記述が含まれる古いパピルス紙が発見されました。

そこには、イエスは彼らに言った。『私の妻は…』や「彼女は私の弟子になれるに違いない」などの内容のコプト語で書かれた文章が含まれていてキリストに妻がいた可能性が出てきた。


今年2014年の4月10日に「ハーバード・セオロジカル・レビュー」で研究論文が発表された。

それによるとこの古いパピルス紙片を科学的に分析した結果、捏造されたものではないことがわかった。


同文書のパピルスとインクを科学的に分析し、同文書が古代のものであると発表!

つまり、本物の可能性が高いとのことです。



2012年のこの古文書の発見まではキリストは未婚だったとされているため、この発見をきっかけに、宗教的な理由による独身や、教会内での女性の役割などをめぐる長年の議論が再燃してました。


ローマ法王庁(バチカン)が発行する新聞は、文法に誤りがあることや、文字が不鮮明なこと、そして出所が不明なことから同文書を偽物と明言していたため、今回の分析結果により否定された形になり、さらなる物議が起きそうです。
参照【AFP=時事】

歴史は新たな証拠が出ると、作り直されます。
つまり歴史は変わりながら、真実を探るわけですね。
過去に歴史が変わった出来事を探してきました。



過去と現在では変わった歴史!
歴史教科書の変容を調査!!

「鎌倉幕府成立」1192年→1185年に

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「いい国作ろう鎌倉幕府」で有名なゴロで、どんなに歴史嫌いでも知ってる鎌倉幕府成立の年代が変わってしまいました。
新しく改訂された幕府の成立は1185年です。今の学生は語呂も”いいハコ(1185)作ろう鎌倉幕府”で覚えているらしい。

変更された理由

鎌倉幕府の成立といっても、鎌倉の地に役所を置いたり、宣言したというわけではありません。
私たちが鎌倉幕府と呼んでいるのは、源頼朝が鎌倉を本拠地にして、武力を背景に朝廷から勝ち取った武士のいろいろな権利のことを言っているのです。
権利は実態がないので解釈で変わってきます。

学者などでは3パターンの考え方があります。

①1183年説
朝廷が頼朝の流罪人の身分を正式に取り消して元の官位に戻し、「関東地方の武士は頼朝の命令に従うこと」という宣旨を出した年。

②1185年説
犯罪人となった弟・義経を捕えるため、頼朝が全国に追捕使(後の守護)・地頭を置くことを朝廷に認めさせた年。
また1185年は壇ノ浦の戦いがあって、平氏を滅ぼしました年でもあります。

③1192年説
後白河法皇が死んだことで、頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年。

④1221年説
承久の乱。後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、幕府に鎮圧された事件。
この乱ののち、朝廷監視のため六波羅探題を置くなど、幕府の絶対的優位が確立した年

現在は②を支持するのが多くなり、学校の教科書は殆ど②になっております。
歴史は解釈でも変わってきますね。


あの源頼朝の絵は、実は足利直義だった!?

美術史家の米倉迪夫さんが1995年に、頼朝像として有名な例の絵は、足利尊氏の弟・直義(ただよし)だと衝撃の説を発表!
研究者の多くは今ではみなこの絵は、頼朝ではないと考えています。
ただし、現在、論争の真っ最中で、結論は出ていません。

そのため現在の教科書では伝源頼朝像と記載されております。




「大化の改新」645年→646年に
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大化改新絵巻

歴史の教科書で始めに年号を暗記したあの大化の改新も変わってしまっています。

大化の改新とは
645年に始められた政治改革のこと。中大兄皇子や中臣鎌足らが中心となっておしすすめ公地・公民制度など律令国家の礎を作った。

変わった理由
645年に中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼしたのを乙已の変、として独立させ、大化と言う年号を採用した646年からを大化の改心とするよう2つに分けたことで年号が変わりました。


そもそも最近では大化の改新がなかった説が近年急浮上してきています。

大化の改新がなかった説
『日本書紀』の孝徳紀には645~647年、天皇が11の詔を下したとあります。
漢字の音訓が混じった和化漢文で書かれ、群臣の前で読み上げたとされています。

しかし、和化漢文が一般化するのは670年ごろのことなので事実としておかしいのです。
大化の改新といわれる一連の改革は、日本書紀編者による創作ないしは後世の過大評価であるとし、その存在を疑う説が近年有力である。




士農工商の記載が無くなる!

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士農工商といった身分での上下関係はなかったことが明らかになり、教科書に記載されなくなっています。
かつては,教科書に限らず,一般書籍も含めて,近世特有の身分制社会とその支配・上下関係を表す用語として「士農工商」,「士と農工商」という表現が定説のように使われてきました。

理由
研究していくと士農工商という身分制度や上下関係は存在しないことが実証的研究から明らかとなりました。

それにより近年は「士農工商」の記述は教科書から外されるようになっています。


日本最古の貨幣:和同開珎→富本銭

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私が習ったときの教科書には、「日本最古の硬貨は和同開珎」と書いてあるのですが、改訂版の教科書には、「日本最古の硬貨は富本銭」と変わってきています。
変わった理由
平成11年・1999年1月19日に 『富本銭』が奈良飛鳥池遺跡で出土し、和同開珎より古いからである。


日本書紀に記された天武天皇12年、即ち683年の「今より以後、必ず銅銭を用い銀銭を用いることなかれ」とある記述はこの富本銭のことであり、また上下に刻まれた富と本の字は、中国の故事「富民之本在於食貨」(民を富ませる元は食と貨幣にある)に由来。

つまり683年富本銭、708年和同開珎です。

貨幣は富本銭のほうが古いが、本格的に出回った通貨としては和同開珎が最古であるとしています。



鎖国の表現を緩めて”いわゆる鎖国”などに変更

「鎖国」→表現を緩めて”いわゆる鎖国”などに 教科書の記載を変更されてます。

理由
東アジアの中では交易を続けていたり、オランダとも貿易をし、かつて思われていたほど江戸時代の日本は閉鎖的でないことが明らかになってきたからです。

江戸時代には、有名な長崎の出島以外にも、松前藩を通じてのアイヌとの交易や、対馬を通じての朝鮮との国交、薩摩を通じての琉球との交易がありこれら4つをあわせた「よつのくち」による他国、他地域との交易が行われていました。

これは日本が当時の東アジア全体に広がっていた交易ネットワークに加わっていたことを意味しています。
また鎖国という言葉は、幕末の「開国」に対して便宜的に「鎖国」と言ったのに過ぎません。

現在は、歴史家の間ではもはや「鎖国」と言う言葉をそのまま用いることは少なくなってきています。
山川の教科書などでも「“いわゆる”鎖国」と言う表現を使っております。




奥の細道→おくのほそ道
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『おくのほそみち』の様々な伝本に、『おくのほそみち』『おくの細道』『おくの細みち』『奥の細道』などとさまざまな「用字」が使用されています。
10年前の教科書までは、奥の細道のですが、松尾芭蕉の原本が発見されて今では、おくのほそ道になったらしいです。



仁徳天皇陵→大仙陵古墳

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仁徳天皇陵は教科書で、大仙陵古墳に名称が変更されています。

理由
宮内庁が調査のための発掘を認めていない現状において、学術上ここが仁徳天皇陵であると確定することは不可能であることにより、現在では教科書などを含めて「仁徳天皇陵」との呼び名は用いられなくなっています。

また1976年以降、より学術的な遺跡の命名法に則り「大仙陵古墳」の使用が始まった。
現在では教科書などを含めて「仁徳天皇陵」との呼び名は用いられなくなっている。




別人の可能性の高い歴史上の肖像画

聖徳太子
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1930年以来1984年まで一万円札の紙幣に使われた聖徳太子肖像はこれから採られた。
1982年、当時の東京大学史料編纂所長であった今枝愛真が聖徳太子とは関係の無い肖像ではないかとの説を唱えて話題になる。

制作時期は8世紀ごろとみられるが、中国で制作されたとする意見もあり、誰を描いたものかも含めて決着は着いていない。
最近の教科書や歴史参考書等では、この画像を掲載する場合「伝・聖徳太子」と説明したものも多くなっている。


足利尊氏
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この足利尊氏といわれてきた肖像画。
近年、研究が進み、馬具や武具をみると「輪違」といわれる紋が描かれていることがわかり、これは高師直(こうのもろなお)のものではないか?と言われ始めました。
高師直とは、足利尊氏の側近で、南北朝の動乱の中で、数々の武功を納めた勇猛な武将です。

黒い馬にまたがり、刀を担ぐ武将。かつて「足利尊氏像」とされていた肖像画だが、現在は単に「騎馬武者像」とされ、他社の教科書にもあまり掲載されなくなってます。


武田信玄

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近年、この画像を信玄像とすることに異論があらわれました。

画像を仔細に見ると武田氏の家紋である「菱」紋が描かれてていないこと。
また、像主の事績を記した賛が切り取られていること。このようなことから、この画像は「武田信玄の肖像」ではないとする風潮が定着しつつある。

最近の教科書では「伝武田信玄像」と書かれたり記載を見送る傾向にあります。




感想

歴史というのは、現在ある資料に基づいて当時を推測するに過ぎないと思います。

真実は当時生きてた人にしかわかりません。

ですので現在の歴史が全て真実ではないのですね。
客観的な証拠が出れば、どんどん歴史は変わり、より真実に近づくものだと思います。

他にも歴史は変わる要素はあります。

例えばの中国の歴史みたいに世を治めた人が都合よく歴史を書き換える事は、よくある事ですからね。

今後より一段と、掘削技術や歴史研究が進んで、新たな証拠や鑑定結果により事実が分かり、もっと歴史が変わっていく事となるでしょう。





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