日本の美人の移り変わりの歴史! [調査、評価]
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日本の美人の移り変わりを調べてみました
古墳時代
図参照:茅原大墓古墳・発掘調査現地説明会
縄文時代の土偶や弥生時代の埴輪の顔面に赤い顔料が塗られていました。
これが日本の化粧の始まりで、魔除けのために“赤化粧”が行われ、赤は悪魔の進入を防ぐ色とされていた。
平安時代
平安時代の美人は、色白の肌、体型はふくよかで、顔はしもぶくれ気味なオタフク顔であご先は丸く、顔は大きく引目と呼ばれる細い象眼が美人と呼ばれてました。
今の時代とは逆に目がぱっちりした人は目がでかくて気持ち悪いだとか、痩せている人は貧相だと思われてたそうです。
そしてこの時代、最大のモテる条件は長い髪でした。これは成熟した女性の証でもあったそうです。
この時代は女性が男性に顔を見せることは結婚を許すことでもあったため、扇で顔を隠していました。
なので、男性が女性を見ることができるのは髪や服だけだったので、モテるためには長い髪が必要だったのです。
当時は化粧で顔を真っ白に塗っていて、その白さをより際立たせるため、長い黒い髪を求めていたわけです。
中には髪の長さが7mもある人がいたという記録があります。
胸の大きさは、妊婦などの中年的な象徴でした。
当時の女性の成年年齢が12歳程度が初めであったことから、胸の大きさはさほど男女とも気にしてなかったとされます。
•9世紀に生きた日本3美女のひとり小野小町 図参照:知泉Wiki
鎌倉・室町~戦国時代
武家の価値観が美人観に大きな影響を 及ぼしました。
平安時代までは飢餓などもあり、一般人が満足な食事を取るのが困難な時代であり、太っていることが豊かさの象徴であり、イコール美人の象徴ともなったわけです。
しかし、鎌倉時代に入ると、武家の時代の女性にはモラル的なものが強く求められますが、これは清楚
さ、凛々しさといったものに美人像が移り変わります。
武家社会になると、平安美人のような女性ではなく、人間的に活動的な女性の方が好まれたのではないかと思われます。
戦国一の美女といえば、お市の方ですね。浅井長政、柴田勝家、羽柴秀吉…そして一説には、実兄であるはずの織田信長にまで愛されたという美貌!
図参照:ウィキペディア お市の方
戦国時代も長い髪が美しい基準でした。
ですので当時の女性は背中以上の長さが多かったそうです。
室町時代以降は眉毛の書く位置はさらに高くなっています。目はこの時代も切れ長い一重まぶたが美しいと考えられていました。
女性の歯は『まるで黒漆を塗ったかのようなツヤのある黒い歯』こそ美の象徴とされていました。
戦国時代も平安時代と大きく変わってるところはないですね。
江戸時代
江戸時代以来、日本では色白できめ細かい肌、細面、小ぶりな口、富士額、涼しい目元、鼻筋が通り、豊かな黒髪が美人の条件とされてました。
浮世絵で見られる小さな目で描かれた女性は、当時の理想的な美人を様式化した作品です。
江戸時代に入ると鼻は現代と同じくある程度高いほうがよかったようです。当時の小説に、低い鼻を高くしてほしいと神社で願を掛ける女性の話が出てきます。
井原西鶴の作品には、低い鼻を高くしてほしいと神社で無理な願いことをする、との記述があり、当時鼻の高さを好んだ傾向が伺えます。
眉毛は江戸時代に変化してきました。
短い顔や丸顔の人は細い三日月形に、長い顔、顔が大きい人は少し太くなど、顔形によって最適な眉毛に変えておしゃれをしています。
江戸時代に入ると自分に似合う眉の形、気にしていたんです。
ただ、庶民の女性は、子供を産むと眉を全部剃って描かないという社会慣習があったのです。
ですから、当時の女性にとって眉は、娘時代の貴重な記憶だったのでしょうね。
江戸時代のアイドル 明和の三大美女の一人と言われた、笠森お仙(1751-1827)
お仙は谷中の茶屋で働く単なる町娘であったのだが、美人の評判が江戸中を駆け巡り、わざわざ彼女見たさに団子を食いにくる男たちが続出したそうです。
『お仙は化粧をせずとも超絶美人で、それを見に来た野郎たちは、ヨダレを垂れ流し、団子も食わねぇ』
と言われており、凄い人気だったそうです。
図参照:BUSHOO!JAPAN 笠森お仙
幕末になると現代人にも美人と思わせる人が続出!
写真も残っており、江戸初期と幕末では美人像もだいぶ変わったのがわかります。
楠本高子(楠本イネの娘)
楠本高子
漫画家・松本零士さんが『銀河鉄道999』のメーテルを描く際にモデルしたのが、この楠本高子さんだったそうです。
一条美賀子(徳川慶喜の正室)
一条美賀子
二重まぶたで目がぱっちりして現代にもいそうですね。痩せ型だ小顔で美人ですよねー。
明治〜大正〜昭和初期
明治半ばになると日本でも美人コンテストが行われるようになります。
1891年(明治24年)、東京浅草の凌雲閣(12階)で行われた「百美人」の催しが、日本初の美人コンテストと記録されています。
やや長めの顔に目はぱっちり大きく、鼻は高く、色白なのが美人の条件とされてました。
こうした美意識は、明治時代から大正時代に至るまで日本の美人像の代表です。
明治41年の美人コンテストの優勝者は末弘ヒロ子さん16才です。
末弘ヒロ子(16才)
図参照:「坂の上の雲」マニアックス
関東大震災後から、パーマネントや断髪、口紅を唇全体に塗るなど、欧米の影響を受けて従来の美意識と相容れないような美容が広まりました。
大正三大美人の1人、川島道子さん
図参照:大正三美人をご存知ですか
戦後
日本では、西洋の影響を受けて、白人に近い顔立ちが美人とされた。
顔が細長い瓜実顔から丸顔に美人像が変化していきます。
その理由はアメリカ映画の影響とされてます。
ミス日本の第1代(1950年)の大女優 山本 富士子さん
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
美人とは何かと広辞苑で調べてみると【顔、姿が美しいこと】と書いてあります。
美しいとは主観的でもありますので、時代背景や経済状況や時のブーム何かでも美人の条件は変わってきました。
平安時代と現在では美人の条件もだいぶ変わり、今と正反対です。
細い目→大きな目
小さな鼻→高い鼻
ふくよかな体型→細みな体型
アゴ先は丸い→アゴ先はシャープ
お歯黒→真っ白な歯
一重まぶた→二重まぶた
太い眉毛山なし→細い眉毛山あり
このように今の時代と全く違い面白いですね。
今の時代で美人で無い人は平安時代ですと美人かも知れませんね。
平安時代でブスだった人は今の時代ですとアイドル級の美人だったかも知れません。
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日本の美人の移り変わりを調べてみました
古墳時代
図参照:茅原大墓古墳・発掘調査現地説明会
縄文時代の土偶や弥生時代の埴輪の顔面に赤い顔料が塗られていました。
これが日本の化粧の始まりで、魔除けのために“赤化粧”が行われ、赤は悪魔の進入を防ぐ色とされていた。
平安時代
平安時代の美人は、色白の肌、体型はふくよかで、顔はしもぶくれ気味なオタフク顔であご先は丸く、顔は大きく引目と呼ばれる細い象眼が美人と呼ばれてました。
今の時代とは逆に目がぱっちりした人は目がでかくて気持ち悪いだとか、痩せている人は貧相だと思われてたそうです。
そしてこの時代、最大のモテる条件は長い髪でした。これは成熟した女性の証でもあったそうです。
この時代は女性が男性に顔を見せることは結婚を許すことでもあったため、扇で顔を隠していました。
なので、男性が女性を見ることができるのは髪や服だけだったので、モテるためには長い髪が必要だったのです。
当時は化粧で顔を真っ白に塗っていて、その白さをより際立たせるため、長い黒い髪を求めていたわけです。
中には髪の長さが7mもある人がいたという記録があります。
胸の大きさは、妊婦などの中年的な象徴でした。
当時の女性の成年年齢が12歳程度が初めであったことから、胸の大きさはさほど男女とも気にしてなかったとされます。
•9世紀に生きた日本3美女のひとり小野小町 図参照:知泉Wiki
鎌倉・室町~戦国時代
武家の価値観が美人観に大きな影響を 及ぼしました。
平安時代までは飢餓などもあり、一般人が満足な食事を取るのが困難な時代であり、太っていることが豊かさの象徴であり、イコール美人の象徴ともなったわけです。
しかし、鎌倉時代に入ると、武家の時代の女性にはモラル的なものが強く求められますが、これは清楚
さ、凛々しさといったものに美人像が移り変わります。
武家社会になると、平安美人のような女性ではなく、人間的に活動的な女性の方が好まれたのではないかと思われます。
戦国一の美女といえば、お市の方ですね。浅井長政、柴田勝家、羽柴秀吉…そして一説には、実兄であるはずの織田信長にまで愛されたという美貌!
図参照:ウィキペディア お市の方
戦国時代も長い髪が美しい基準でした。
ですので当時の女性は背中以上の長さが多かったそうです。
室町時代以降は眉毛の書く位置はさらに高くなっています。目はこの時代も切れ長い一重まぶたが美しいと考えられていました。
女性の歯は『まるで黒漆を塗ったかのようなツヤのある黒い歯』こそ美の象徴とされていました。
戦国時代も平安時代と大きく変わってるところはないですね。
江戸時代
江戸時代以来、日本では色白できめ細かい肌、細面、小ぶりな口、富士額、涼しい目元、鼻筋が通り、豊かな黒髪が美人の条件とされてました。
浮世絵で見られる小さな目で描かれた女性は、当時の理想的な美人を様式化した作品です。
江戸時代に入ると鼻は現代と同じくある程度高いほうがよかったようです。当時の小説に、低い鼻を高くしてほしいと神社で願を掛ける女性の話が出てきます。
井原西鶴の作品には、低い鼻を高くしてほしいと神社で無理な願いことをする、との記述があり、当時鼻の高さを好んだ傾向が伺えます。
眉毛は江戸時代に変化してきました。
短い顔や丸顔の人は細い三日月形に、長い顔、顔が大きい人は少し太くなど、顔形によって最適な眉毛に変えておしゃれをしています。
江戸時代に入ると自分に似合う眉の形、気にしていたんです。
ただ、庶民の女性は、子供を産むと眉を全部剃って描かないという社会慣習があったのです。
ですから、当時の女性にとって眉は、娘時代の貴重な記憶だったのでしょうね。
江戸時代のアイドル 明和の三大美女の一人と言われた、笠森お仙(1751-1827)
お仙は谷中の茶屋で働く単なる町娘であったのだが、美人の評判が江戸中を駆け巡り、わざわざ彼女見たさに団子を食いにくる男たちが続出したそうです。
『お仙は化粧をせずとも超絶美人で、それを見に来た野郎たちは、ヨダレを垂れ流し、団子も食わねぇ』
と言われており、凄い人気だったそうです。
図参照:BUSHOO!JAPAN 笠森お仙
幕末になると現代人にも美人と思わせる人が続出!
写真も残っており、江戸初期と幕末では美人像もだいぶ変わったのがわかります。
楠本高子(楠本イネの娘)
楠本高子
漫画家・松本零士さんが『銀河鉄道999』のメーテルを描く際にモデルしたのが、この楠本高子さんだったそうです。
一条美賀子(徳川慶喜の正室)
一条美賀子
二重まぶたで目がぱっちりして現代にもいそうですね。痩せ型だ小顔で美人ですよねー。
明治〜大正〜昭和初期
明治半ばになると日本でも美人コンテストが行われるようになります。
1891年(明治24年)、東京浅草の凌雲閣(12階)で行われた「百美人」の催しが、日本初の美人コンテストと記録されています。
やや長めの顔に目はぱっちり大きく、鼻は高く、色白なのが美人の条件とされてました。
こうした美意識は、明治時代から大正時代に至るまで日本の美人像の代表です。
明治41年の美人コンテストの優勝者は末弘ヒロ子さん16才です。
末弘ヒロ子(16才)
図参照:「坂の上の雲」マニアックス
関東大震災後から、パーマネントや断髪、口紅を唇全体に塗るなど、欧米の影響を受けて従来の美意識と相容れないような美容が広まりました。
大正三大美人の1人、川島道子さん
図参照:大正三美人をご存知ですか
戦後
日本では、西洋の影響を受けて、白人に近い顔立ちが美人とされた。
顔が細長い瓜実顔から丸顔に美人像が変化していきます。
その理由はアメリカ映画の影響とされてます。
ミス日本の第1代(1950年)の大女優 山本 富士子さん
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美人とは何かと広辞苑で調べてみると【顔、姿が美しいこと】と書いてあります。
美しいとは主観的でもありますので、時代背景や経済状況や時のブーム何かでも美人の条件は変わってきました。
平安時代と現在では美人の条件もだいぶ変わり、今と正反対です。
細い目→大きな目
小さな鼻→高い鼻
ふくよかな体型→細みな体型
アゴ先は丸い→アゴ先はシャープ
お歯黒→真っ白な歯
一重まぶた→二重まぶた
太い眉毛山なし→細い眉毛山あり
このように今の時代と全く違い面白いですね。
今の時代で美人で無い人は平安時代ですと美人かも知れませんね。
平安時代でブスだった人は今の時代ですとアイドル級の美人だったかも知れません。
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タグ:日本の美人の移り変わり
2014-05-10 00:00
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コメント(5)
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そう言えば山本 富士子さんって今どうしてるんでしょうね?
by 旅爺さん (2014-05-10 09:14)
どうも現代の美人がそれほどと思えない自分は
古い人なのかもしれません(笑
10代の頃は一般的な美人が好きでしたが
今じゃアイドルとか女優とか見ても、皆同じような顔に
見えてしまうんです。単に飽きただけ!?
by 昆野誠吾 (2014-05-10 17:46)
楠本高子さんて方がメーテルのモデルになった話は初めて知りました。
切れ長の目をした綺麗な方ですね。
by hide-life (2014-05-10 17:48)
うむー。自分の顔がモテ顔になる時代はこなそうです・・・
いいの。個性派でいくの(笑)
by リュカ (2014-05-10 21:38)
楠本高子さんのお祖父様は、あのシーボルト博士ですから、クウォーター(お母様のイネさんがハーフ)になりますね(^^)
by 風来鶏 (2014-05-10 22:40)